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2025/01/20
押田 洋子
イラストレーター/コピーライター/エッセイスト
英文学科/1962年
2025/01/19 時点
プロフィール
東京都出身
1946年 敗戦の翌年に区立小学校入学
中学は私立「共立女子中学」へ
高校は都立「白鴎高校」へ
大学は私立「津田塾大学」へ進む
1962年 英文学科卒業
広告代理店「博報堂」入社
1973年 「東京コピーライターズクラブ新人賞」受賞
博報堂退社 パリへ遊学
1975年 帰国しフリーランサーとして活動開始 東京六本木に事務所を持つ
現在85歳、広告制作の仕事は卒業したが、60歳を過ぎてから始めたカレンダーは続行中
著作:イラストエッセイ「中国 お皿の上の物語 Ⅰ、Ⅱ」「パリ お皿の上の物語 Ⅰ、Ⅱ」「旅は、ご馳走」等
その他:個展、版画(ジグレー)、ステーショナリー 毎年イラストカレンダー2種を発表
メッセージ
パリから、一冊の写真集が送られてきた。
昨年他界した親友ジョエルのアルバムだった。共に写真家である彼女の夫ジルが編集したものである。本の中の彼女は、いつものように“ヨウコサン”と話しかけてくる。人の心に国境はない・・・コスモポリタンを自認する今日の“私”を見て、80年前の“私”はなんと言うだろうか。思えば、“好奇心”に導かれた長い青春時代だった。
東京の下町生まれ。6歳の時に敗戦。8月15日の夜、“今夜からはぐっすり眠れる”と幼心に思ったものだ。父は、欄間などを彫る木彫師。家庭では五女として、木っ端の香りにつつまれ、父親の仕事場で遊んだ。若き女性教師のもとで、戦後の自由教育を受ける。貧困と混乱に満ちた小学校ライフだった。中学では「人文地理クラブ」のメンバーとして白地図を手に、旅の楽しみを知る。高校は受験校だったが、世界史と美術史を愛し、とりわけルネッサンス時代に惹かれた。三年生の時、大学進学を決意。あまり賛成でなかった両親を説得した。
大学は、自立を考えていたので「津田塾大学」を選んだ。(就職内容が良さそうだったので)入学式の時、壇上に立たれた粕谷学長の美しいお顔がまぶしかったことが鮮やかに思い出される。一年の担当は天満先生で、その発音の技巧に驚かされた。とにかく地方出身の同級生はよく勉強し、私はといえば、学費のためもあり、家庭教師(先輩からの紹介)のアルバイトに明け暮れ、予習も復習もなまけ、授業中の眠気に悩まされ、スレスレで卒業させていただいた。
1962年広告代理店「博報堂」入社。きっかけは、博報堂社員(新聞部の先輩)による新入社員募集のスピーチを聞いたこと。コピーライターの何たるかも知らず、「文章を書く仕事らしい」と興味を持った。当時、広告業界は急速に発展中。広告制作が重視され、アメリカの広告表現を手本とした。
当然だが、英語の世界である。スレスレ卒業の私だが、津田塾での訓練がモノを言ったことは言うまでもない。幸いなことに“コピーライター”という仕事とは相性がよく、難関の「東京コピーライターズクラブ新人賞」を受賞。ファッション、コスメチック、食品などさまざまな広告制作に携わった。
やがてサラリーマンにアキがきた。かつて観光旅行で訪れたことのあるパリ行きを決意。1973年サラリーマン脱出。「パリ大学4 ソルボンヌ」の語学講座に遊学。パリ21区の屋根裏部屋に住む。そこは、まさに昔の女中部屋。小さな窓が天井にひとつ。月の眺めを楽しんだものだ。そのパリで生涯の友ジョエルに出逢う。“友達の友達は友達だ”・・・ノルマンディーやロワールの別荘に招かれたり、食事に招かれたり友情の輪が広がる。壁紙の崩れかかった屋根裏とヌイイーのお屋敷の落差について考えもしなかった。
父の死を期に帰国し、六本木に事務所を持つ。
やがて、パリ・モンマルトルにアパルトマンを求め第2の住まいに。東京とパリを往復する。週末には友人たちを招いて和風家庭料理を振る舞った。遙かにエッフェル塔が見える、素晴らしい眺めの部屋だった。しかし懐かしのモンマルトルとも数年前に“おさらば”。20年の歳月が流れていた。理由は簡単。年齢によるエネルギーの減少である。
一方、食文化取材で訪れた30年来の「求味の地」中国では、スケッチの楽しみと出会った。水彩画は自己流。習ったことはない。広告を見たカレンダー会社(APJ)の社長の依頼で「押田洋子の食とスケッチの旅」カレンダー制作を20年近く続けている。思いがけず好評をいただく。人生、わからないものである。
私は、まだ歩き続けているようだ・・・目の前を照らしているものは何なのか・・・これが津田梅子先生からいただいた“ all round ”スピリットなのか。私は all roundを“大いなる好奇心”と密かに意訳している。