2024/05/13

株式会社博多石焼大阪屋
取締役会長

英文学科/1969年

2024/05/13 時点

プロフィール

1965年 福岡県立福岡高校 卒業
1969年 津田塾大学 英文学科 卒業
1980年 博多石焼 大阪屋(株式会社 大阪屋) 入社
1985年~1988年 NHKラジオ「きいちゃんしゃい」 インタビュアー
1993年~ ペシャワール会 理事
1998年~ 博多ごりょんさん・女性の会 会長
2002年~2003年 NHK視聴者会議委員
2005年7月~2006年6月 福岡桜ライオンズクラブ 会長
2008年2月 (株)博多石焼 大阪屋 代表取締役
2011年~2017年10月 福岡商工会議所 女性会 会長
2014年10月 (株)博多石焼 大阪屋 取締役会長
2014年11月~2017年11月 福岡商工会議所 副会頭
2015年5月~2018年6月 福岡市障がい者スポーツ協会 会長
2015年6月~2018年3月 福岡県産業教育振興会 会長  
2018年5月10日 旭日単光章 拝受
2018年6月~ 福岡いのちの電話 理事


メッセージ

“出会い”この言葉が一番好きです。今の私があるのは人々との出会いです。そして特に母です。大正生まれの母は、女性が職業を持つことを「よし」としない時代でした。しかし母は職業婦人となる事を望み、当時の和文タイプ、電話交換手の免許を取り、有名なホテルの電話交換手として働いていました。

その時 「女子英学塾」と、宝塚出身の友人がいました。私には兄2人がいて末っ子が私、3人兄弟です。ですから母は私にどちらかに進んで欲しい希望があり、幼い時より宝塚に行く為にバレエ、日本舞踊、音楽等を習い、高校2年生まではそのつもりでした。宝塚に行くには高校2年生で中退して行きますので高校はどこでもよく、たまたま福岡有数の進学校に入ってしまいました。男子と競り合い勉強するうち、母が大学に行くなら 、母は戦争を経験していましたので「お金は無くなるが身に付けた財産は無くならない」と津田塾を選ばせました。卒業当時は4大卒業生の就職は限定されていました。卒業2年後に結婚をし、2人の子供を授かり専業主婦を10年間しました。主人が来年100周年を迎える料理屋でしたので私達が後継者となり、このサービス業に入りました。

東京から、福岡支部の同窓会で、学長が見えた時も、サービス業の卒業生は珍しいと「博多にわか」でおもてなしをした事もあります。社会に出た時は、いろんな会合に出ましたが、男社会でしたので、100人いるうち女性は3〜4人位でした。当時(40年前)の博多の町は、ごりょんさん(商家の奥さんのこと)は家を守って外にあまり出ないという風潮でした。その中で公民館の館長が同級生のお父様で、外に出て勉強しなさいと私を引っ張り出して頂き、プロフィールにありますように福岡商工会議所、女性だけのライオンズクラブ、又福岡中小企業経営者協会等々に所属し、今では「歩く広告塔」と言われるようになりました。

津田塾を卒業して良かったなと思いますのは、福岡商工会議所の女性会の会長の時、会頭に呼ばれ、副会頭に指名して頂いた事です。政令都市で初の女性副会頭です。その後、私の背中をみて次々と女性副会頭が出てきたのは嬉しい事でした。日本全国又海外にも視察として行き、物事を日本の中でなく、世界の目で見れるようになった事です。

大学の3年の夏休みに日米協会による第一回夏期留学生の募集を掲示板で見て、応募して行こうとしました。
1ドル360円の時代です。ロックフェラー財団が交通費を出してくれるという事でしたが、滞在費その他で30万円いるとの事(当時のサラリーマンの初任給が3万円位の時です)「結婚する時は嫁入り道具はいらないから」と母に相談しますと「あなたが行きたいと思うなら行きなさい」。母の考えは、したいと思う事を途中で止めたら運命が違う方に行くとの思いから出してもらいました。カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に1ヶ月。金髪の女子大生と寮が同室でアメリカの学生の気質がよくわかり、その後1週間かけてグレイハウンドバスでジョージア州のサバナ市のコーストガードの家にホームスティしました。まだ日本人が珍しく当地の新聞の一面に写真付きで「Japanese girl came to my town」という見出し、又朝のテレビにもゲストとして出演、大忙しの毎日でした。
最近、数年前に福岡市とアトランタ市が姉妹都市の記念にアメリカに行き又ワシントンD.C.にも行きましたが、学生の時とは違う目でアメリカをみる事ができました。

特に思いが強いのは、高校の2年、3年のクラスメートのアフガニスタンで人道支援をしていた「中村哲」医師です。2019年に銃弾に倒れましたが、私の人生で彼と一緒の空気を吸い、少しでもお役にたったのが一番の誇りです。30数年前、彼から「頼みがあるったい」と言われ、何の頼みだろうと思いお聞きしましたら、ペシャワール会が出来たばかりで財政は火の車、私がお金を集める役を仰せつかりました。ですから高校その他の友人は、私を見たら「はいこれペシャワール会に」とよく頂きました。高校の同窓会では私の同級生又先輩達が協力して寄附を集め、同窓の皆さんには快く協力をして頂きました。「誰もしたがらない事をする、誰も行きたがらないところに行く」それが彼の信条でした。今も継続していますが、わが母校に「ペシャワール会」という部ができ若者達が活動しているのが嬉しいです。

お陰様で2018年には旭日単光章の叙勲もいただき皇居に行き天皇陛下から「今まで地域に貢献されてきましたがこれからも貢献して下さい」というお言葉をいただきました。

日本は平和です。平和を維持するには戦争を始めるよりも何倍もの努力が要ります。「戦争は大義名分に始まり、廃墟に終る」と言われています。少しでも世界が平和になる事を願っています。私を育てて頂いた「出会い」の皆様に感謝します。

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