- 究
- 結
2021/11/22
伊藤 実佐子
独立行政法人 国際交流基金
日米文化教育交流会議(CULCON)事務局長
英文学科/1981年
2021/11/15 時点
プロフィール
卒業後は民間企業での就職・転職を経験したところで結婚・出産。1987年にできたばかりの出版社に職を得て、キャリアと自分の人生を考えるようになった。出版社では、雑誌『外交フォーラム』の創刊に携わり、その後16年間にわたり編集(うち5年間は編集長)。世の中は行政改革を迎える時期になり、外務省の特殊法人から独立行政法人となった国際交流基金の部長クラス以上の民間人起用第一号として、2004年にヘッドハンティングされる。外交・出版の両分野での経験から、対外発信、いわゆる「広報」の世界に。米国ワシントンDC日本大使館に参事官/日本文化広報センター(JICC)所長、2011年から14年までは国際交流基金ロサンゼルス日本文化センター所長、2014から16年まではシンガポール日本大使館に参事官/ジャパンクリエイティブセンター(JCC)所長として10年にわたる海外勤務後、2016年に帰国して現職。
メッセージ
結婚・出産後に始めた仕事以降、35年間一貫して「外交」に関係する仕事に携わっています。1979年在学中に、オーストラリア国立大学(ANU)で勉強しました。当時、大平正芳総理が首都キャンベラを来訪され、その際の日本外交官の働きを目の前で見た時、漠然と「外交」に携わりたいと思うようになりました。しかし、1年間の留学から帰国して現実に戻ると、国家試験の大変さに一瞬にして脱落。30歳を目前にたまたま現れたチャンスから、「外交」を出版事業から勉強し、続いて外務省や国際交流基金といった日本外交に資する仕事に就く結果になったのは、自分が一番驚いたことでした。
本や雑誌・新聞といったメディアに対する関心は、津田塾大学時代に培われたものと自覚しています。ゼミはアメリカ研究でしたが、内容が移民問題やエスニシティ、女性学といった“同時代性”を見ることから、大学の図書館や在日米国大使館アメリカン・センターのライブラリーには頻繁に足を運び、飽きることなく米国の雑誌や洋書のページを繰っていました(英語が得意なのではなく、米国のマイクロ・コスモスを見ているような気分として)。外交の世界に入ってからは、やはり、国際政治や国際関係など自分の無知ぶりに苛まれ、学習に多くの時間を費やしました。大学時代にもっと勉強すればよかったと悔やんだのはその時です。
しかしながら、外交の世界でも、海外における日本理解を促進する情報発信、広報、そして、相互理解のために最も効果的な人と人との交流こそが、国際文化交流の基本だという認識は強まっていきました。そして、この方面で仕事を進めていくことによって、自分も“外交”の一端を担うことになる、と気がついてからは、その目的意識を保ちながら、楽しく、生きがいを感じながら仕事をしています。
目の前に急に現れたチャンスは逃さない。そのためにも、普段からのさまざまなご縁を大事に思い、日々が学びと思いながら生活をしていく。これが若い皆さんへのメッセージです。そして今、子育て真っ盛りの後輩のみなさんへも。焦る必要はありません。私も自分のアイデンティティが無いと悩んだ時期がありましたが、チャンスは到来します。私が高校生の娘を連れて、最初の海外赴任をしたのは49歳の時でした。少しだけ、目の前の時間軸を、長尺な物差しに置き換えてみること。それこそ、私が津田塾から学んだ「津田スピリット」なのだろうと感じている今日このごろです。