2025/01/28

NPO法人DPI(障害者インターナショナル)日本会議
議長

国際関係学科/1982年

2025/01/28 時点

プロフィール

平野みどり(障害者アクティビスト)
国際関係学科1982年3月卒業。平田機工株式会社海外部に6年勤務。1988年に脊髄腫瘍の摘出手術後、両下肢麻痺となり、車椅子ユーザーに。1990年から1991年にダスキン障害者海外派遣研修にて渡米。米国障害者差別禁止法の制定過程を学び、障害のある子どもが通常学級の中で共に育ち学ぶ教育現場を訪問。帰国後、地元熊本で自立生活センターヒューマンネットワーク熊本を仲間たちと立ち上げる。1997年から2015年まで4期17年間、熊本県議会議員。引退後は、障害者運動に軸足を置き、活動を展開する。2014年よりNPO法人DPI(障害者インターナショナル)日本会議議長。2025年1月より、内閣府障害者政策委員会委員に任命される。


メッセージ

病気とは無縁の元気な子として成長してきた私でしたが、20代から下肢に違和感を覚え、1988年30歳の時に、脊髄腫瘍が原因であることがわかりました。摘出手術後は予期せぬ車椅子生活となりましたが、早い段階から様々な方たちとのご縁により、新たな人生を再スタートすることができました。英語が使えたことは、海外での当事者運動を学ぶ大きなチャンスを作り、今に至ります。

特に、大学時代に人権を学んだはずでしたが、卒業後の社会に蔓延っていた男女不平等やハラスメントを経験するたびに、「社会ってこんなものなのか」、「元気で堂々としていた私はどこにいったのか」などと壁にぶつかることも少なくありませんでした。

ところが、思いもよらず障害者として人生が始まり、様々な困難や不自由にぶつかる度に、「差別を受ける立場」の私は、目からうろこが落ちるように、差別の構造を身をもって実感し、他のマイノリティーの皆さんとの連帯を意識するようになりました。

熊本県議会議員という役割は、補欠選挙にいきなり挑戦した(させられた?)ことによって始まりましたが、障害関連の政策実現とともに、様々な立場の声なき声に耳を傾け、そこから学び、生きやすい地域社会を作っていくことに、少なからず取り組むことができたように思います。

さて、昨年、優生保護法被害者の裁判闘争が、国による謝罪と賠償という形で終結しました。私も支援者の一人として闘いましたが、この優生保護法は、私が生まれる前の1948年にできた法律で1996年まで存続しました。多くの障害のある先輩たちが(多くは70代、80代)、同意もなく優生手術を受けさせられ、人生を壊されたと訴えていました。国による被害者への賠償が始まり、優生思想蔓延への反省と対応も始まります。かつて障害を持つ前の私の中にも少なからず植え付けられていた「障害がある人=一般の人より劣る存在、社会にとって重荷であり、迷惑な存在」という優生思想に基づく考えを社会の中から一掃し、どんな条件がある人も助けを求めることができ安心して暮らせるインクルーシブな社会の実現に、これからも取り組んでいきたいと考えています。

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