- 究
- 挑
2020/05/07
横田カーター 啓子
ミシガン大学大学院図書館
日本研究司書
国際関係学科/1980年
2019/10/17 時点
プロフィール
国際関係学科1980年卒業。米国留学後、大阪府立高校で英語教師。その後、結婚のために再度渡米。国際教育修士号(国際的な日本理解教育)を取得し、東部諸大学で日本語講師を8年間勤める。情報図書館学修士号取得後、日本研究司書として、ワシントン大学図書館(1999年-2012年)、ミシガン大学大学院図書館(2012年-現在)に勤務。日本研究司書として米国および海外における日本研究の支援基盤の仕事に従事する。日本、欧米、世界各地の日本研究者、図書館、出版等の関係者と共に、国際的な日本学研究の向上に従事し、異文化相互理解を深めることで、平和な世界の構築に貢献することを望んでいる。
メッセージ
私が津田塾に入学したのは1976年。男尊女卑的な元旧制中学校の高校で押しつぶされるような暗い日々を送っていた高校生の私にとって、1975年に開かれた国連国際婦人年世界会議は光明でした。その首席代表が津田塾大学藤田たき学長。歴史の教科書の中にあった津田塾が私の人生にとって現実的な存在になった出来事でした。窒息しそうな日本を出て世界を見てみたい、自由な世界で暮らしてみたいとずっと憧れていた私は、安全に自由に勉強できそうな女子大学を選びました。それでも津田塾は雲の上のような存在で、「人生の記念になれば」と思って受験。合格したことも信じ難く、自分が育った大阪とはまるで異なる「西洋的な大学」で自分の生活が予想できないとおじけづきました。そんな私に勇気をくれたのは妹でした。「未知だからこそ行く価値がある。なぜ飛び込まないのか!」。近所の本屋のおばさんもリベラルアーツの大切さを進言してくれました。津田塾の良心的な授業料は有り難く、東京での生活を支えてくれた両親、妹、弟には深く感謝しています。
でも、人生にはいろんな季節があり、同窓会にも行きづらい時期がありました。米国留学から帰国した時、無職だった私には津田塾の敷居はとても高く、訪問できなかったのです。そんなどん底の時も、私は津田塾での日々を思い出し、まるで牛が反芻をして栄養を摂るように、心の中で母塾を「訪問」して立ちあがる力を与えられていたのだ、と卒業後40年経った今になって思います。津田梅子先生が6歳で渡米し、自分のことだけでなく、日本女性全体を考えて、女子教育が無いのであれば「創り出す」と実現した強烈な事実。未知へ挑戦する勇気と、無から創造していく津田塾のアイデンティティは、キャンパスで過ごした日々に、知らず知らずのうちに私の魂にも沁みこんでいたのです。
米国で離婚を経験した時は茫然自失、暗闇を彷徨。でも、ある米国女性が「すべてを失ったのではない。新しい世界の扉が開いた人生でも特別な時」と言ってくれ、目の前に未知の大洋が広がっていきました。仕事上でも不可能と思えることがあると、「だからこそ私がいる。私の出番だ」と思うようになりました。海外販売を拒否された日本の電子資料を北米の司書達と協力、工夫して海外に普及させました。どんな人生を送っていようと、小さな未知への挑戦の積み重ねです。津田塾の歴史、先生、職員、同窓生の行動が、困った時にこそ、あなたに未知への勇気と立ちあがる力を与えてくれます。