- 究
- 拓
2021/12/20
菅原 淳子
北里研究所・北里大学
常任監事
国際関係学科/1977年
2021/12/11 時点
プロフィール
1977年3月国際関係学科卒、1984年3月大学院国際関係学研究科博士課程単位取得満期退学。1980年にはブルガリア科学アカデミーの招待により6か月間現地研究。国際関係学科研究助手、国際関係研究所研究員を経て、1992年二松学舎大学国際政治経済学部に着任。国際交流センター長、国際政治経済学部長を歴任後、2015年から2019年まで学長を務める。退職後2020年より北里研究所・北里大学常任監事。1995年から2012年まで高校教科書『世界史A』(東京書籍)編集委員。専門はバルカン地域研究、国際関係史。
メッセージ
世界のさまざまな国の人々の暮らしや文化、地理や歴史に対する私の好奇心の扉を開いたのは、子供のころ読んでいた世界少年少女文学全集だった。大学では世界のことをもっと知りたい、新しい学問分野で学びたいと思い、津田の国際関係学科を選んだ。開設間もない学科は熱気にあふれ、interdisciplinary な学びや地域研究はとても新鮮だった。第二外国語としてロシア語を学んでいた私は、東西冷戦の最中ほとんど情報の入ってこない東側の国々への関心を強めていたが、研究対象を決めたのは、ゼミの指導教授南塚先生の一言だった。「ブルガリアを研究している人はほとんどいないし、言葉はロシア語に近いよ」。当時刊行され始めた東欧文学全集の中の、ブルガリアの小説に描かれていた素朴な社会にも惹かれた。卒論でブルガリアの独立運動を扱った私は、将来を考えることもなく、もう少し勉強をしたいという気持ちで大学院に進んだ。
当時の津田は日本における東欧研究の中心の一つで、大学院の先輩たちは次々に留学していた。ブルガリアとの間では国費留学制度がなく半ばあきらめていたが、夏季語学セミナーに参加したことをきっかけに留学が実現した。社会主義体制が崩壊する10年前だった。1990年前後になると多くの大学で国際を冠した学部が新設され、博士課程を終了した先輩や友人たちが大学に職を得るようになっていた。結婚し子育てをしていた私は、幾つかの大学で非常勤講師をしながら研究を続けていた。大学院の指導教授百瀬先生は「忍・鈍・根+運」としばしばおっしゃっていた。忍耐、鈍感、根性そして運があれば就職できるという意味である。そして私にも運が巡ってきた。文学部だけの単科大学だった二松学舎大学が国際政治経済学部を新設する、その開設のための人事で、私は38歳になっていた。
明治の漢学塾から出発した二松学舎は、中学高校の国語科教員を養成してきた大学で、旧態依然としており、リベラルな校風の津田から来た私には戸惑うことが多かった。21世紀を迎え世界ではグローバル化が進み、日本では少子化が進んでいく。高等教育機関としての大学はさまざまな面で改革を迫られていた。開明的な理事長が就任し、二松学舎でも経営や組織の改革が進み、その流れの中で私も学長として副学長や教職員とチームを組んで、2015年から大学改革を進めることになった。いかにして質の高い教育を学生に提供するか。振り返ってみると、私が津田で受けたのはまさに質の高い教育だった。