2023年、調査で赴いた岩手県宮古市田老町道の駅にて
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2025/03/24

英文学科/1962年

2025/03/24 時点

プロフィール

津田塾大学卒業後、東京教育大学文学部に学士入学、同大学大学院修士課程に進学、大学院在学中に結婚、出産。その後、夫の勤務先の長野市に16年間住む。その間、江戸末期~明治初期の都市の貧困に興味を持ち研究。転じて、江戸末期の震災から関東大震災へと災害史の研究を進め、現在に至る。在野の研究者として、2021年南方熊楠賞受賞。


メッセージ

安保闘争の1960年は大学3年の時であった。わたしは自治会の委員長をしていたから、国会周辺のデモには何回も行った。とりわけ忘れがたいのは、樺美智子が亡くなった6.15であった。時刻を正確には覚えていないが、女子学生が殺された!という情報がどこからともなく流れてきて、それから夜の明けるまで沈痛な静寂に包まれたなか、ほとんど学生は国会周辺の道路に座り込んで動かなかった。

津田での学生生活は、片田舎の小商人の家に育ったわたしのような者にとっては、親元を離れて「自由」を味わい、さまざまな人々に出会い、学生運動しかり、異なる世界に足を踏み入れることができた貴重な時であった。

時に国会周辺のデモへの参加を呼び掛けるビラなどを作ったりしたが、学生課に呼び出され、何事かと学生課に行くと、「あなた、ビラに誤字があるわよ」というような次第で、なんとも牧歌的なものであった。

こんな次第だから、津田の四年間は英文学の勉強などに身が入るはずもなく、さっぱり興味を覚えなかったが、日本の歴史を学べばもっと社会が判るかもしれないと考えた。親も友達も賛成しなかったが、日本史を学ぶために東京教育大学文学部(現筑波大学)に学士入学した。学費は家庭教師のアルバイトで補った。

しかしながら、日本史の勉強も古文書を読むなどの訓練を積み、史学の基礎的な教養を身に付けなければ、そう簡単に社会への理解が深まるものではなかった。幼児を預けて大学院に通うような生活は、当時まだ社会的な理解は得られていなかったが、幸いにも夫は大学の助手で時間的には自由が効いたから、やりくり算段で、貧乏生活をつないだ。

そんなわけで、自分の生活につなげて理解できる都市の貧困層、特に江戸から東京への転換期に人々はどう生き抜いたかというテーマに興味を持ち、江戸末期に1万人の死者を出した安政江戸地震(1855年)を調べて、『安政江戸地震と民衆』(三一書房、1983年)という本を出版した。この研究で、朝日学術奨励金150万円を得て、災害史という分野は歴史学界では未開拓の領域であることがわかり、引き続き日本災害史研究に専念した。

唯一いえることは、自ら選んだとはいえ、条件が整わないなかで自分が興味を持つことや疑問に思う問題を調べることを諦めなかったということだろう。85歳の今もこれで最後にしようと思いながら、提出した論文の査読結果を待っている。

※写真:2023年、調査で赴いた岩手県宮古市田老町道の駅にて

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