2020/05/07

株式会社日立システムズ
サステナビリティ・リスクマネジメント本部コーポレート・コミュニケーション部担当部長

国際関係学科/1985年

2019/10/03 時点

プロフィール

1985年3月国際関係学科卒業後、日立電子サービス株式会社入社。勤労部人事課に配属。1990年サービス技術本部海外部。1990年7月から当時できたばかりの育児休職制度を利用し1年2ヶ月休職。2001年10月総務部秘書グループ主任。2005年4月社長室広報グループ部長代理。2011年4月社長室上席チーフスペシャリスト。2011年10月合併により、株式会社日立システムズ広報担当部長。現在に至る。


メッセージ

男女雇用機会均等法が制定された1985年に大学を卒業して企業に入社しました。2020年の3月には勤続35年を迎えます。雇用機会均等法は1986年施行ですから、ぎりぎり均等法前に入社し、企業や世の中の変化を見てきました。この35年の経験は、おそらく女性を取り巻く環境の変化を映していると思うので、少しご紹介します。

大学生の時、夏休みに霞が関の中央官庁で2か月アルバイトしました。最初に教えられたのは、全員の湯飲みとコーヒーの好みを覚えること。朝と3時にお茶を入れるのは女性の仕事でした。企業に入っても同じで、女性だけ朝早く出社して全員の机を拭き、上司や来客用の茶碗を洗う、お茶当番なるものがありました。入社当時、女性の管理職は一人もいませんでした。しかし津田塾で女性学を学んでいた私は、一生経済力を持つと決めていました。入社1年目に結婚し、招待状を上司に渡しただけで「君は辞めないと思ったのに」と言われました。「結婚しても辞めません」と伝えると驚かれました。当時はどこも似たり寄ったりだったと思います。

20代のうちに子供が欲しいと思い、予定通り29歳で妊娠しました。上司に相談すると、どうしたら活躍できるか真剣に考えてくれ、海外部に異動が決まりました。妊娠中に「育児休職制度」ができ、1年2か月の休職がかないました。世界各国に駐在し、色々な価値観の人たちをマネジメントしてきた海外部の人たちは、90年代初頭にすでにダイバーシティの感覚を身に付けており、定時で帰っても、時間内にしっかり成果を上げれば評価してくれました。子育てが大変な10年間を海外部で働けたのはとてもラッキーでした。その後、社内報を強化してほしいと、社長室に異動になり、同時に役員秘書も担当することになって秘書主任を任されました。フレックス勤務など無い時代、子供のPTAや子供会の役員もやっていて、それはもう身体がいくつあっても足りない忙しさでした。しかし、社内報の取材や秘書業務で役員を含めて色々な人と触れ合ううちに頑張りが認められ、会社の初代広報課長に、そして広報部長になりました。合併を経て、今は連結で18,000人の会社の広報部長として、M&Aのプロジェクトに参画したり、社長取材に同席したり、様々な広報業務を取りまとめています。35年で会社も世の中も本当に変わりました。

女性は補助というのが当たり前の時代に入社した私が30年後にはイタリアやマレーシアで買収記者会見を仕切っている。女性が働くための制度も充実して、今の若い人たちには、もっともっとたくさんのチャンスがあると思います。でも女性には色々な生き方の選択肢があるので迷います。どんな自分になりたいのかを、しっかり考えてチャンスをつかんで欲しいと思います。津田塾はそれができる大学です。

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