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2025/04/04
岡田 亜弥
名古屋大学
大学院国際開発研究科 教授
国際関係学科/1983年
2025/04/04 時点
プロフィール
1983年国際関係学科卒業。英国サセックス大学開発学研究所(IDS)開発学修士号、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)都市地域計画研究科Ph.D. 取得。国連地域開発センター(UNCRD)、国連児童基金(UNICEF)ニューヨーク本部、同インド・ラクナウ事務所勤務を経て、1999年より名古屋大学大学院国際開発研究科助教授。2005年より教授。専門はアジア諸国の産業人材育成、社会開発、ジェンダー。2011~2012年米国社会科学研究評議会(SSRC)Abe Fellowshipを得てMIT客員研究員、ジャワハルラール・ネルー大学(JNU)客員教授。2013~2015年名古屋大学総長補佐、2015~2019年同大学副理事。2021~2024年同大学院国際開発研究科研究科長。JICA、JST、NHK、愛知県、名古屋市等の諸審議会・委員会委員を歴任。
メッセージ
津田塾大学で学んだ4年間は、私の人生の方向性を決定づけ、キャリアの礎となった。故・山田秀雄先生のゼミで、当時「南北問題」として知られた、南の開発途上国と北の先進国の間の格差の問題に関心を持つようになった。卒業後40年余り、私は、途上国の社会経済開発に関わる国際開発という分野で実務者・研究者・教育者としてのキャリアを歩んできたが、最初の一歩は、津田塾大学での学びにあった。
在学中に多くを得たが、特に3点が挙げられる。第一に国際的な視野。海外に目を向け、世界で起きていることに関心を持ち続けることの大切さを学んだ。当時、日本では「国際開発学」という学問分野はまだ確立しておらず、国際関係論を学べる大学も数少ない中、津田塾大学で途上国の経済社会状況、歴史・文化、政治・国際関係等について幅広く学ぶことができたのは幸運だった。第二に社会的弱者への共感。学生時代、日本に小さなボートでたどり着く「ボートピープル」と呼ばれたインドシナ難民の受入れが社会問題化していた。卒業後も、日本に定住したカンボジア難民の子どもたちの就学支援のボランティアを続けたが、家庭教師をしたカンボジアの少女が高校に入学できたときは本当にうれしかった。第三に自立する女性として凛として生きること。津田塾大学の理念「自立した女性」は在学中、自身に内在化され、「凛とした生き方」は社会で活躍される多くの先輩・同窓生の方々から学んだように思う。
卒業後、シンクタンクに勤務し、英国で開発学を修士課程で学んだ後、2つの国連機関勤務を経験した。UNICEFでの最初の勤務地はニューヨーク本部で、世界中から集まる同僚とともに、「子どものための世界サミット」(1990年)開催の準備、グローバルな目標の達成状況を測るモニタリングシステム開発などに携わったが、まさに世界を俯瞰的に見ながらの仕事だった。インド・ウッタルプラデシュ州にあるラクナウ事務所に転勤した際は、当時、州人口1億4000万の約半分が子どもで、その半分が栄養失調という状況だった。貧困地域の幼児の栄養改善と就学前教育に取り組んだが、厳しい現実に直面しながらもやりがいがあった。
MITで博士号を取得し、以来勤務する名古屋大学大学院国際開発研究科では、学生の8割がのべ100か国以上から集まる留学生であり、国際的な学修環境を提供しているが、津田塾大学や2度の海外留学で得た国際的な視野と幅広い専門知識は研究や大学院教育にも活かされている。国際開発学は学際的な学問分野であり、開発協力実務との連続性も高く、幅広い知識やスキルが求められる。津田梅子先生の「オールラウンダーであれ」という教えは、この分野では特に重要だと実感している。
2015年にUNWomen が進めたジェンダー平等推進運動HeForShe で勤務校が世界の10大学に選ばれ、私は担当副理事として学内外でジェンダー平等推進活動の展開に注力したが、大学も日本社会全体も、さらには世界全体を見ても、女性の活躍は進んできたものの、ジェンダー平等実現には未だ課題が多い。より多くの女性が意思決定に参加できる社会の実現を願っている。
学生の皆さんには、幅広く貪欲に学び、行動し、そして世界の課題の解決のために自らのできることを見つけてほしいと期待している。